変わらないことの大切さ

琉球の祈りは1年を通して、執り行われています。

穀物などの農作物の豊作を願う五穀豊穣の祈り。

航海の安全と大漁を願う海神祭

子孫の繁栄を願う祈りや、健康を願う健康祈願など。

全ての祈りは、人が生きていく為に必要な祈り。

人々の純粋な願いばかりでした。

 

 

 

 

琉球の祈りを後世に残していく為、母から教わったり本を通して学んできました。

何故、その時期に執り行われているのか。

何故、この様な作法なのか。

どんな祈りの意味があるのかなど、母に尋ねてきました。

 

 

 

でも、いつ尋ねても「おばぁに教えてもらった通りにうーとーとーしているから、意味は分からない」と。

「おばぁにちゃんと教えてもらわなかったの?」と聞いても

「おばぁも姑からの教え通りにうーとーとーしてきたから、おばぁも分からないはずよ」と。

 

 

母は祖母の教え通りに祭祀を務め、また祖母も姑の教え通りに祭祀を務めてきたので、私が聞きたい何故に答えられないというのです。

 

話を聞きたくてもおばぁに尋ねる事は今となっては叶わないので、何でこんな大切なことを聞いてこなかったのという残念な思いを今までずっと抱えていました。

 

 

 

先日、私の思いを聞いてくれた方が、とても大切なことを教えてくれました。

 

 

 

「祈りに意味を求めてはいけないし、意味を探してもいけない」

何故なら、意味がないと祈らないと言っているのと同じだから。

祈りは真心。

真心で祈るのが祈りであって、そこに意味などない。

祈りに意味を持たせるから、争いが起こると。

 

 

話を聞いたとき、ハッとしました。

もっと深く伝えたい思いばかりが先走り、とても大切なことを見失っていました。

祈りは真心です。

真心で手を合わせ、神仏様ご先祖様に感謝を伝える。

祈りにそれ以上の意味などありません。

 

 

 

祖母も母もただただ教えを守り、祭祀を務めてきました。

もし、誰かが途中で祈りに意味を持たせ「ああしたほうがいい、こうしたほうがいい」と形を変えてしまっていたら琉球の祈りは違う形となっていたか、現在まで受け継がれることはなかったかもしれません。

琉球國時代から純粋に受け継いできた祈りなので、途絶えることはなかったのです。

 

 

代々ノロの教え通りに受け継いできた祖母母の祈りは、琉球國時代の祈りそのものなのです。