琉球王国の歴史とノロ(神女・祝女)

出展:那覇市歴史博物館 資料コード02005228(神扇と勾玉と辞令書)

首里王府から女神職の就任に際し勾玉・神衣装・簪・神扇などが与えられました。表の面は日輪と2つの鳳凰に瑞雲、裏の面は月と牡丹の彩色が一般的で沖縄・奄美諸島のノロに分布しています。 那覇市歴史博物館

 

ノロ 神女・祝女

 

琉球王府より任命された『 ノロ 』琉球王府の定める役職名で
祈念祭祀を司る女性神職のことです。

 

ノロとはなんですか?
    巫女のことですか?

 

県外より観光の流れから参拝にお出での方から多い質問です
ノロは女性ですから巫女が思い浮かぶのでしょうけれども、

 

ノロとは琉球國の制度で任命された女性神職の役職名です。
国家の定める制度ですから今でいえばノロは祈りの国家公務員

 

国王からノロに任命されるとき、首里王府から国王の押印した
辞令書が発行され、勾玉・簪・神扇・神装束などが与えられて
各地域で祭祀を司りました。

 

琉球処分、大戦と大きく動いた歴史のなかで、当時発行された
辞令書は消失し残っていないのが残念ですけれども、奄美地方
のノロに発行された辞令書と神扇・勾玉が博物館に収蔵されて
います。

 

ノロ(神女・祝女)
琉球國 ノロ(祝女)最上位に聞得大君が任命された神女階級制度

 

2007年の祭祀の様子、1970年代の祭祀を描いたイラストと共に
ノロの祈り・今帰仁城の歴史を紐解く 今帰仁村教育委員会認定
今帰仁城を学ぶ会officialサイトをご覧ください。

 

ぬちどぅ宝『ぬち』沖縄方言で『命』

命こそが宝、沖縄黄金の言霊です。
命こそが尊い一番大事な宝
命を粗末にしてはいけないという意を含んでいます。

 

先史時代(縄文・弥生/旧石器・貝塚)時代にはじまり
古琉球時代へと、人々は何万年にも及ぶ長い時のなかで

 

生きる。

 

生きる為にお力添えを頂いている
太陽・月・火・水・土・風の尊さ有難さを全身全霊で感じ

 

大自然のすべてに感謝し共に生きるなか自然信仰が生まれ
拝所(うがんじゅ)御嶽(うたき)で祈りはじめました。

 

そんな琉球の長い歴史の節目を振り返りながら時代と共に
生きたノロの歴史と重ねます。

 

 

古琉球(こりゅうきゅう)

 

12世紀のグスク時代に始まり、琉球國の成立を経て
16世紀の島津侵入までの時代の流れを古琉球と呼びます。

 

先史時代

3世紀 〜11世紀まで続いた先史時代は新石器・貝塚時代
日本史に当てると縄文時代から平安時代までの長い時代

 

貝塚時代を終えようやく農耕社会が形成されていきます。
農耕社会への変遷と同時に集落が形成され人は助け合う。

 

そして村の守り神として
『 拝所(うがんじゅ)』祈りの聖地が作り出されました。

 

大自然に住まう神々様へ

必要なだけの太陽の光を雨水を降り注いでくださること
日々の暮らしを見守ってくださることへの感謝を祈って

神々様が住まう場所を、太古の人々はハッキリ見出して
拝所(うがんじゅ)を作っています。

 

大昔の人々には神々様が普通に見えていたんでしょう。

 

人と神様が共に暮らしていた時代だったと神々様が零す
懐旧の声が聞こえるようです。

 

グスク・三山時代

 

鍛治の技術が持ち込まれ農具の誕生により社会化が促進し
各地には按司(あじ)と呼ばれる指導者が誕生しました。
勢力争いの拠点
砦 としてのグスクを築いてグスク時代が展開されました。

 

14世紀に入るとより強力な「 三つの勢力 」が出現します。
沖縄本島を
「 北部・中部・南部 」に分断して
それぞれの按司(あじ)が地域を支配しました。

 

これが「 三山時代(さんざんじだい)」です。

 

王統は
「舜天王統」1187年~1259年
「英租王統」1259年~1349年
「察度王統」1350年~(中山王国)(北山王国)(南山王国)
第一尚氏王統、第二尚氏王統と続きました。

「察度」はもともと浦添の按司(あじ)で、
中国の皇帝へ弟の泰期を派遣して貢物を治めたことにより
中国との交易が認めらます。
これで中国を足がかりに琉球の大交易時代が幕を開けます。

 

各地域を治める按司(あじ)

浦添、読谷、中城、
勝連、佐敷、今帰仁と良港に恵まれた按司たちは海外交易
も盛んに行うようになり交易で手にした富や権力を元に、
各地の按司が地域を治めていきます。

 

貿易で成果が上がるのに伴い各地域の按司たちを統率する
「 世の主 (よのぬし)」が出現します。

世の主「おもろさうし」に見え、本来は在地首長である按司の呼称だったのが、第一尚氏王朝成立後は、国王の呼称にも転化して用いられる。対外的にも認知された呼称であり、室町幕府が外交文書で使用した例も実在する。琉球新報引用

 

今帰仁を中心とした「 北山 」
浦添を中心とした「 中山 」
大里を中心とした「 南山 」

 

それぞれに大きなグスクを築城しました。
北山に造られたグスクが今帰仁城 (なきじんじょう)です。


今帰仁(なきじん)は、ミヤキセンと呼ばれていました。
グスクは城のこと。
琉球では城という言葉はなく、グスクといいます。

今帰仁城=ミヤキセングスク

 

 

琉球國誕生

 

三山時代に終わりを告げるのは1429年
佐敷の按司であった尚巴志王が琉球統一を図り首里城を整
備します。このとき琉球國の中心が首里城になりました。

 

 

尚巴志王はさらに日本、中国、東南アジアとの貿易も勢力
的に行うようになり中国を足がかりに琉球王国大交易時代
の幕が開きました。

 

この頃「 三線 」「 泡盛 」「 紅型 」「 螺鈿細工 」など
琉球文化の基礎が海外から流入してきています。

 

 

第一尚氏王朝の第5代尚金福王が亡くなると
再び武力による争いが勃発しますが、跡を継いだ尚泰久は
尚巴志王に次いで存在感の大きな王と呼ばれました。

 

尚泰久王は、初めて琉球に臨済宗を伝えた京都南禅寺出身

室町時代の禅僧・芥隠承琥らに深く帰依して数多くの寺を
建立し、知識人たるヤマトの僧侶を招いて厚遇し、文教を
盛んにしました。

 

禅僧・芥隠承琥は尚泰久王、尚徳王、尚円王、尚真王の各王
に仕え王府の後援の元仏教の振興に尽力しました。
広厳寺、普門寺、天龍寺、円覚寺など多くの寺院を創建し

中でも首里城北の琉球王家の菩提寺「 円覚寺 」は鎌倉にある
円覚寺を模した完全なる七堂伽藍を配した大寺でした。
ただ残念なことに、
大戦で円覚寺は焼失してしまい現在は石橋が残存しています。

芥隠承琥は1466年、京都の足利義政への使者になるなど外交面
でも重要な役割を果たしました。

 

 

 

琉球國中枢 首里城

また梵鐘の鋳造にも熱心で1458年には「万国津梁の鐘」
造らせて首里城正殿に掛け高らかに琉球の気概を謳い上げ

士民を鼓舞し海外貿易も盛んに行ったことで尚巴志王以来
の名君とうたわれましたが、岳父護佐丸を、次に娘婿たる
阿麻和利を滅ぼします。

 

その後

 

護佐丸・阿麻和利の乱を治めた第七代尚徳王が即位するも
臣下の金丸のクーデターにより第一尚氏王朝は終焉します。

1470年クーデターに成功したあと金丸は即位し尚円王とな
りこれが19代続く第二尚氏王朝の始まりです。

 

地方統治を強化し、聞得大君を頂点とする神人組織をつく
りあげ、中央集権国家を断行し強力な王府を形成した琉球
黄金時代です。

 

琉球王朝と今帰仁ノロ殿内

 

琉球國第一尚氏王統時代
すでに首里の佐司笠/差笠(さすかさ)という祭司と国頭
郡地方由来の阿応理屋恵(あおりやえ/オーレー)という
祭司を最高位とする、祭政一致を行っていましたけれども
当時はまだ神女体制の階層化は完成していませんでした。

 

 

政治と宗教が一体となっていた、琉球國第二尚氏王統時代
琉球國の王としてもっとも長い期間在位した
尚真王(在位1477-1526)
王権を中央集権的な国家基盤を固めるため組織改革を実施

 

琉球地方に古くから伝わる自然崇拝、祖霊信仰の祭祀を司
る神女・ノロたちを組織化して国家的な祈りの組織を整備
した祭政一致時代が始まります。

 

『 ノロ 』 という呼称はそのとき神職の正式名称として制定
されたものですが、祭祀制度そのものはそのときのことでは
なく、古琉球(グスク・三山時代)から佐司笠/差笠(さす
かさ)という祭司と、

国頭郡地方由来の阿応理屋恵(あおりやえ/オーレー)とい
う女性祭司を最高位とする祭政一致を行っていました。

 

尚真王はすでにあったこれらを整備して、中央集権的に階層
を作り上げたのです。

 

王国内の最高権力者を国王
神女ノロ最高位を聞得大君

 

聞得大君は国王を精神的に支え国王と王国全土を霊的面で
守護し安寧を祈る、
極めて重要な役割を果たしてきました。

 

 

聞得大君は王家の女性から選ばれ首里城内の10の御嶽と
斎場御嶽を掌管し全国のノロたちを支配していました。

聞得大君の下には、王朝制定以前からの有力な神女である
首里・阿応理屋恵、佐司笠などの「君」や首里の三間切を

 

それぞれ掌管する三人の大阿母志良礼(おおあもしられ)
がおり、その下に各地方を統括する「大阿母」達さらに

その下に各地域の祭祀を管轄するノロ(神女・祝女)を配
するヒエラルキーが形成されていました。

 

この高級神女たちを総じ「 三十三君 」と呼んでいました。

 

三十三君について人数の事でなく’大勢’を意味するという
説が有力です。その殆どは首里に在住し王家と血縁関係に
あったと考えられています。

 

 

 

その当時より今帰仁阿応理屋恵(あおりやえ/オーレー)
は国王一族の生誕地、伊平屋及びゆかりの地、今帰仁、
宜名真御殿を遥拝することとなりました。

 

今帰仁グスクに監守が住んでいたのは1500年-1665年頃
今帰仁按司と今帰仁阿応理屋恵は16世紀初頭から17世紀
までの北山の歴史を動かした人物です。

ここでの今帰仁按司は尚韶威(一世・尚真王の三男)から
従憲(七世)までの今帰仁按司、従憲は今帰仁生まれです。

 

今帰仁阿応理屋恵は、今帰仁按司あるいは阿応理屋恵の娘
や孫が継承するのではなく、他家から嫁となって神職を受
け継いでいます。

 

今帰仁城跡にある今帰仁阿応理屋恵ノロ殿内の歴史的変遷
を知ることで沖縄全土でどのように祈りの形が変化してい
ったかを知ることができます。

 

阿応理屋恵ノロ殿内(あおりやえのろどぅんち)今帰仁村
今泊集落に存在するノロの屋敷跡です。
今帰仁城跡に向かうハンタ道(祭祀のときに使用する神道)

 

途中にはいくつかの拝所(うがんじゅ)があり、かつて
阿応理屋恵ノロ殿内火ヌ神の祠であったとされる屋敷跡も
残されています。

 

 

今帰仁城の阿応理屋恵ノロは「 三十三君 」の一人であり
王族に連なる一族出身でした。 1665年同じく王族であり
夫でもあった北山監守・七世従憲が首里へ引き上げると
一緒に阿応理屋恵ノロも首里へと引き上げ、
それ以降この地域で行われる祭祀は今帰仁ノロに引き継
がれています。

 

阿応理屋恵ノロは政治的な性格も強い役職だったからこそ
琉球國の政治的な動向に左右されることになったんです。

 

今帰仁城跡歴史文化センター(博物館)では阿応理屋恵ノロの遺品、具志川家系譜や第二監守時代の辞令書などが展示されていてどのような生活をしていたかと理解を深めることができます。

 

当時の今帰仁阿応理屋恵(アオリヤエ)の動きから阿応理屋恵の
祭祀と今帰仁ノロの祭祀が重なった部分とそうでない部分を
読み取ることができます。

 

1665年北山監守らとともに首里に引き上げ、首里で存続してい
たことは「 女官御双紙 1776〜1713 」で確認できます。

 

女官御双紙・上巻

「 ここの六人の今帰仁アオリヤエは首里で勤めたアオリヤエで
ある。その中の一人は今帰仁間切親泊に住む伊野波筑登親雲上
の室となる」

 

このことから首里城に6人の今帰仁アオリヤエが引揚げたこと
がわかり、首里城に就任したときの様子が明記されています。

 

国王(首里天加那志)の拝謁が許され、首里城に参上し国王に就任の挨拶をして、首里天加那志から御酒を賜り、御朱印・辞令書は首里殿内で首里大阿母志良礼に授かっている。その儀式は四日間に及び、数々の品を贈呈しまた提供されており、その中に御玉貫一對、玉珈玻羅一連、錫一對、御茶之子、籠飯、御服、金劔、などを賜っています。 女官御双紙・上巻

 

 

アオリヤエ不在のグスクの祭祀

 

今帰仁グスクでの祭祀は今帰仁ノロが引き継ぎ執り行いました。
琉球国由来記」1713年に今帰仁グスクでの祭祀が記載されて
います。

ちょうど今帰仁アオリヤエが首里でその職を勤めている時期の
ことで首里に引き揚げて約50年経過した頃です。

 

今帰仁グスクのアオリヤエ管轄の祭祀場には

・城内上之嶽
・城内下之嶽
・クボー之嶽(クバの御嶽)
・今帰仁里主所火ヌ神
・今帰仁城内神アシアゲ
・阿応理屋恵按司火ヌ神

 

などがあり、これらはすべて今帰仁ノロとトモノカネノロが
肩代わりして管轄する祭祀となりました。その頃の記録です。

 

首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデノ、御為、又島国、作物ノ為、唐・大和・宮古・八重山・島々浦浦ノ、船々往還、百ガホウニアルヤニ、御守メシヨワレ。デゞ   <クバの御嶽での祭祀記録/琉球国由来記> 

 

と唱えられ、歌の内容からすると国家レベルの祭祀であり
今帰仁アオリヤエの祭祀場であることが判りますが、
この歌を記録している時期はアオリヤエは首里にいました。

 

この事から国家レベルの祭祀も今帰仁ノロが肩代わりして
執り行っていたことが伺えます。

 

 

その後、1731年
今帰仁アオリヤエの廃止が「球陽」に見ることができます。

今帰仁郡内に阿応理屋恵按司職を廃止する。歴年久遠にして、従って稽詳する無し。然り而して、尚韶威(今帰仁按司朝典)次男向介明(南風原按司朝句)の女に、阿応理屋恵按司職を授け、伝えて向介昭(今帰仁按司)の女宇志掛按司に至ること共計五員なり。今其の事職を按ずるに、五穀祭祀の日、但民の為に之を祈祷する事のみ。而して他郡の祭祀は、只祝女有りて、以て其の祈を為す。是れに由りて、議して其の職を栽つ。球陽引用

 

1665年に北山監守とともに首里に引き揚げてからも
今帰仁アオリヤエの役職は継続されており節の祭祀の際には
今帰仁に戻っていたようでしたが1731年に祭祀は今帰仁ノロ
だけで執行うよう決定されました。

 

六月朔日、復、今帰仁按司の職を継ぐを准す。
今帰仁阿応理屋恵按司は、雍正九年(1731年)辛亥に卒す。其の職は只一郡の礼式を掌り、公辺の務無きに因り、故に、三十三君内撤去の例に照らし、其の職を継頂するを准さず。然れども、殿は、撤去の君君に於て近代に伝へ、猶立て廃せず、料ふに必ず以て撤去し難し。故に今帰仁郡親泊村
兼次親雲上の女蒲戸を択び、按司職を継ぐを准し、年俸二石(雑穀一石・米一石)・悴者二人・地所高十九石七斗七升四合二才を賜ふ。

 

今帰仁アオリヤエは王府の辞令の元に1768年に復活します。

 

1731年に首里にいたアオリヤエ職は廃止となり三十三君の役目
がほとんどなくなったこともあり削減廃止となりましたが、
今帰仁の場合は存続しており、

 

1768年に正式に復活が許されることとなりました。
それ以降、今帰仁阿応理屋恵は最後のアットメーまで続きます。

クバの御嶽(クボウの御嶽)
琉球開闢の神様アマミキヨさまが作った9つの聖地のうち
『 琉球開闢七御嶽 』の一つがクバの御嶽です。

今帰仁城跡からすぐ標高180mほどの丘全体が御嶽とされ
ノロが祭祀を執り行うのは頂上付近の御嶽と、途中にある
いくつかの拝所です。

道なき道をロープを頼りに祭祀場まで登ります。

  
標高は低いながら険しい山道や岩場を登る道中、そして
ほぼ頂上付近の御嶽で祭祀を執り行います。
( 御嶽の写真は掲載していません。登山道をご紹介)

 

御嶽からもう少し登ると今帰仁城跡が一望できる眺望が
素晴らしく、伊江島もしっかり見ることができますが、
岩の上をロープを頼りによじ登っていかねばなりません。

  

 

復活したアオリヤエの今帰仁グスクの祭祀場

・城内上之嶽
・城内下之嶽
・クボー之嶽(クバの御嶽)
・今帰仁里主所火ヌ神
・今帰仁城内神アシアゲ
・阿応理屋恵按司火ヌ神
今帰仁ノロ殿内

 

従来のアオリヤエノロの祭祀場に今帰仁ノロ殿内が加わることに
なりました。今帰仁ノロ殿内が加わると言うより、北山監守らと
共に首里にアオリヤエが引き揚げてからは、今帰仁アオリヤエの
祭祀の全てを今帰仁ノロが肩代わりして執り行っていたことから

 

1768年の復帰後
アオリヤエと今帰仁ノロが、一緒に祭祀を執り行っていたのです。

 

トモノカネノロ(供のかねノロ)

 

今帰仁ノロのお供を務めた人を指す名称です。役職としては
今帰仁ノロの下につく人で単独で祭祀を執り行うことはあり
ませんでした。

 

供のかねノロ殿内火ヌ神の祠は本来別の場所にありましたが
薩摩藩の今帰仁侵攻の際ノロが今泊集落に移転したことに伴
い殿内も現在地に移転したと考えられています。

 

供のかねノロ殿内火ヌ神の祠は今帰仁ノロ殿内火ヌ神の祠の
近くにあり阿応理屋恵ノロ殿内火ヌ神の祠も近くにあります。

 

現在は、今泊集落にある阿応理屋恵ノロ殿内火ヌ神祠跡地、
供のかねノロ殿内跡地も『 今帰仁上り(なきじんぬぶい)』
の拝所の一つとして多くの人が祈りを捧げています。

 

今帰仁上りとは血縁・地縁のある人々によって行われる巡礼
のひとつです。一族の繁栄や健康祈願の他、先祖の霊を慰め
るために定期的に行われる祈願祭祀です。

 

今帰仁ノロ殿内は
現在も、世襲によりノロの祈りを継承し次世代に引き継いで

心清らかに、琉球國から沖縄へと続く

沖縄の礼儀を重んじる祈りの心を、ここに結んで参ります。

 

 

 

参考文献・画像出典・引用元・リンク先情報
那覇グラフィック
那覇市歴史博物館、
今帰仁城跡オフィシャル
今帰仁グスクを学ぶ会、
琉球新報
京都臨済宗南禅寺、
首里城オフィシャル、
中城城跡オフィシャル
今帰仁城跡歴史文化センター、
沖縄県立芸術文化大学付属図書
沖縄大学図書館、takuye network/spc那覇
琉球大学付属図書館
Wikipedia