2018.06.05
平成6年に「今泊誌」が発刊され、ノロ殿内のある集落の歴史が記載されています。
今泊の歴史や文化、芸能、方言など興味深い事ばかりが記載されていました。
生まれた地の歴史を知ることは琉球の歴史を知ることに繋がると感じました。
今泊には世界遺産に登録された「今帰仁城址」があります。
幼い頃は「北山城址」と呼んでいました。
今帰仁城址には数々の御嶽があり、今でもノロが祭祀を務めています。
「今泊誌」にとても興味深い事が記載されていました。
昭和18年、今帰仁城内に北山神社を創設する事が沖縄県庁で決まった。神社を建立するにあたり、城地全域を神域とする事が条件になった。
神社建立の用材を調達するため、今泊住民は福木や大木を幾本となく切り倒し、製材として親川につけて保管したが、戦争の終末と共に設計書も用材も全て消失して、ついに神社は建てられなかった。
今帰仁城内に神社を建てる計画があったなんて驚きました。
琉球が侵略され御嶽信仰から神社に変えていく為に、御嶽に鳥居が建てられました。
今でも神社ではない場所に古い鳥居が立っている御嶽が数多くあります。
御嶽がある場所は神聖な場である事から、御嶽に神社が建てられた場所もあります。
神社と御嶽が同じ敷地内にあります。
父親の幼い頃の話なので今まで聞いた事がありませんでした。
今帰仁城内に神社が建立されていたら、御嶽と神社、城がひとつになっていたのですね。
不思議な空間です。
戦争で設計書も用材も全て消失してしまった為に、神社建立がなくなった。
意味があったのでしょうか。
ちなみに用材を保管していた親川はエーガーと呼ばれる産川で、地域の人々が参拝している大切な祈りの場です。
今でもノロとして祈りを捧げています。
昭和5年に今帰仁城門の前に鳥居が建てられました。
鳥居は私達が幼い頃までありました。
戦争で崩れる事はなかったのですね。
後に住民より「今帰仁城址は神社ではない」と鳥居を撤去する事が決まったそうです。
その時の拝みを務めたのが母です。
鳥居は神の域と人間の住む場所を区画するもの。結界でもあります。
それを撤去する為の拝みを務めたのです。
今帰仁村からノロに祭祀を務めて欲しいと依頼があったそうです。
鳥居撤去の拝みは母にとって重荷ではなかったかと思い聞いてみました。
「今帰仁城内の拝みはノロが務めるものだから鳥居の撤去だけでなく、拝所の移動も全てノロに依頼があり拝みをしてきた。ノロが拝みをしなくて誰が拝みを務める事が出来るのか。ノロとして当たり前の役目だから」と話してました。
今帰仁村も業者も神の域である地に触れるときは、ノロが拝みを捧げる事で安心していたそうです。
ノロの祈りは神に届くと信じていたから、安心に繋がったのでしょうね。
御嶽信仰から神社に変えていく動きがあった事は知っていましたが、まさか今帰仁城址に神社建立が決まっていたなんて。
それも昭和になった後のこと。
その当時も御嶽信仰が認められていなかったのですね。