クリスマスが終わると師走の慌しさが一気にやって来ます。
やり残した事は今年の内に終えたい。
そんな思いがあるので年末まで気持ちだけが何故か慌ただしいです。
今年は本当に学びの一年でした。
ひとつひとつ心の中で整理していくうちに多くの事が見えてきた一年でもあります。
「写し鏡」
目の前に起こっている事への感じ方や受け取り方が人それぞれ違うのは、自分の中にある思いで目の前のことを感じ受け取っているから。
目の前の現象は心の中にある思いの写し鏡なのです。
琉球の祈りを知って欲しいと思った時から「祈り」を探究をしてきました。
「祈り」とは大いなる存在に向き合うひと時
祈りを捧げるというのは向き合う対象がいてはじめて成立するものです。
向き合う対象とはその人にとっての大いなる存在です。
大いなる存在の前では誰でも謙虚です。何故なら向き合っている存在が自身にとっての大いなる存在だからです。
謙虚な姿勢で大いなる存在に向き合い、純粋な心で感謝の気持ちを神々様に届ける祈り
私に写る祈りは美しく尊いものです。
祈りに悪い祈りがあるなんて考えた事は一度もありません
悪い祈りがあり祈りで悪いエネルギーを起こす事が出来るというなら、それはそう思う人の心の中にあるものであり、その人の心の中をその人が写し鏡として見ているのです。
悪い祈りがあるなんて考えた事すらない私の目には、悪い祈りなんて写りません。
これが「写し鏡」です。
目の前の現象をどう受け取り、どう見えたのか人それぞれ違うのは
それぞれの心の中にあるものを、それぞれが見ているから違うのです。
祈りとは純粋な思いを神に捧げるもの
これが私が思う祈りでありこの思いは私の中のもの。だから私には祈りが尊いものに写るのです。
心の中にある思いはみんな違うのだから。見え方もみんな違うのが当たり前。
どんな意見にも賛否両論があるのは当然ですね。
それに気付くと人の言葉に惑わされる必要はなく、自分を信じる事が大切だと分かります。
琉球では祈りを捧げる時「ウートートー」と言います。
漢字で書くと「御尊い」
語源は古語の「安名尊(あなとうと)」で最高の尊敬の念を表す意味だそうです。
小さな子供でも「ウートートー」と手を合わせ祈ります。
「御尊い」
尊い存在に最高の尊敬の念で捧げているのが「祈り」です。