「祈願」と「祈り」
意味を調べてみるとどちらも「神仏様に何かの実現や、成就を願うこと」とあります。
人間を超える神格化されたものに対してお願いすることが「祈願」であり「祈り」
お願いが祈りなら神々様に「ありがとう」と手を合わせることは「祈り」という言葉には当てはまりませんね。
祈りとは「意を宣る」
本来は神々様に決意を宣言する事が「祈り」」だと言われていたそうです。
お願いするというより「私は〇〇を実現します」と神々様に誓う事が祈りでした。
琉球の祈りノロの祭祀には旧暦14日の「タティウガン」と旧暦15日の「フトゥチウガン」があります。
14日に神々様に願いを立てます「五穀豊穣、無病息災、航海安全などの祈願」
15日に祈願を解きます。
祈りを解くとは神々様に「ありがとう」と感謝する事です。
神々様にお願い事をしたのだから「ありがとう」と感謝するのは当たり前の事。
祈願した翌日に御嶽や拝所に出向き「フトゥチウガン」を執り行っていたことから、いかに感謝の祈りを大事にしていたのかが伝わります。
祈願と祈り(感謝)がセットで執り行われていた琉球の祈りはとても奥深いものがあります。
立てた願いを翌日に感謝し解いていたという事は、その願いは叶うと信じ疑わず。
叶った未来に向かい感謝の祈りを捧げていたのでしょう。
神々様にお願いしたのだから大丈夫という安心感。神々様へ絶対の信頼を置いていたのだと思います。
願いが叶う、叶わないなど関係なくお願いをしたら「ありがとう」と感謝するのは人として当然の事ですね。
「〇〇は叶いました、ありがとうございます」
叶った未来を疑う事がないのは神々様を信頼していると同時に自分を信じているのです。
自分には叶える力があるのだと。
信じる力は願いを叶える力へと変わっていきます。
祈りはとてもとても奥深いものです。