「殿内(ドゥンチ)」
琉球士族の内、総地頭職にある親方家を指す尊称。
王族である御殿の下に位置し、高い格式を誇る家柄である。
総地頭職の親方の住む家が殿内ですが、琉球王国では格式あるウガンジュにも殿内の呼称が用いれられていました。
「ノロ殿内」琉球王国時代の格式のあるウガンジュであり、ノロの住む家でもあります。
ノロ制度廃止後もノロ殿内に参拝に訪れる人々が後を絶たなかった為、ノロ殿内をなくす事が出来ませんでした。
琉球時代から現在まで家族で守り続けています。
今では県内外から多くの方々が参拝に訪れています。
琉球の作法で参拝したいと申し出る方も多く、琉球の祈りを大切にしてくれています。
拝所だと知っていて参拝に訪れる人が多い中、最近は白龍神様の宿る龍眼の木があると人づてに聞いて訪れる人が多くなりました。
龍眼の木に会いに来て初めて拝所だと知った人も多いです。
龍眼の木の下にいるだけで心地よく癒されるそうで、何度も足を運んでいる人も多いです。
先日、龍神様が視える龍神様と話せるという方が数人を連れて龍眼の木に逢いに来ていました。
龍眼の木の下で楽しそうに談笑し、霊能者さんからいろいろ話を聞いている様でした。
その霊能者さんが以前、私達に伝えた言葉があります。
「龍眼の木の龍神様は視えるけど、私は神棚には何も感じません」と。
その時は神棚に何も感じなくてもいいのではと思っていました。
感じる、感じないは人それぞれですから。
今回残念に思った事がありました。
その霊能者さんが数人を連れノロ殿内の敷地に入り、真っ直ぐに龍眼の木に向かったのです。
一緒に来た方々も龍眼の木に集まっていました。この場所がどんな場所なのか知らない様子でした。
案内した霊能者さんはこの場所がノロ殿内だと知っていますが、それを伝えていなかったのでしょう。
皆さん龍眼の木の下で並んで写真を写したり、ワイワイと楽しそうに談笑していました。
拝所だと知らないなら仕方がありません。
残念なのは案内した方がノロ殿内だと知っていながら、ノロ殿内に背を向けていた事です。
参拝を望んでいるのではありません。
ノロ殿内が「太陽神様の祀られた拝所」だと知っているなら、せめて拝所に向かって一礼して欲しかったです。
それは参拝ではなく礼儀です。
しかも民家です。人の敷地にお邪魔しているのです。
参拝所だと聞き訪れたが民家だったので参拝を躊躇した。人様の敷地に入っていいものかどうか悩んだと数人の方から伝えられた事があります。
拝所でありながら生活の場だという特殊な環境のため、難しい事がとても多いです。
案内する方が拝所を無視すると一緒に来た方々も、本来ここがどんな場所であるのか分からずじまいです。
思い出されるのは「神棚に何も感じません」という言葉でした。
拝所であっても神様が感じられない、龍神様は視えるから龍眼の木は拝所よりも凄いという事なのでしょうね。
視える、感じるなんて関係ありません。
神様が視えなくても感じられなくても、琉球から続く拝所である事は間違いありません。
参拝所を訪れ「私はここに何も感じないから手を合わせない」それは間違っています。
神々様が視えるから、感じるから手を合わせるのではありません。
神々様の祀られた拝所だから手を合わせるのです。
参拝に訪れている方々は視える聞こえるなど関係なく手を合わせています。
「大いなる存在が視える、聞こえる」という思いは、大切な何かを忘れ去っている気がします。