呼ばれるということ

理由はないが何故か気になったり、そこに行きたいと思ったり。

何となくに従い行ってみると「その為に来たんだ」と納得できる理由にビックリする。そんな不思議な体験はありませんか。

 

 

ノロ殿内に来た方々の訪れた理由を聞くと、中には不思議な導きの方もいます。

そんな時「呼ばれたのかもね」と話しています。

 

 

先日、何故か鳳凰の生まれた場所に行きたいと急に思い立ち足を運ぶと「ここに来たのはこういう訳だったのか」と感じる事がありました。

行って良かったと思いました。

 

 

「土地に呼ばれた」「神様に呼ばれた」という話をよく聞きます。

実際、私も鳳凰の場所に呼ばれたと思いました。

 

 

呼ばれたというより「自分が行きたかったから行った」が正確な表現です。

何故か、行きたいと感じたから、その直感に従い足を運んだのです。

足を運んだ結果、ここに来た意味があったと自分で感じました。

行って良かった。

この「良かった」を神々様が与える為、呼んでくださったのだと思いました。

 

 

表現が難しいのですが…

ノロ殿内を通り過ぎ、引き返してまで訪れてくれた方。参拝所だと知り参拝出来たことをとても喜び帰って行く姿を見ていると、神々様に呼ばれたのだと感じました。

 

 

導かれる様に訪れ参拝出来た事で心から良かったと安堵する。

その安堵を神々様が与えてくれたのです。

何故、神々様は呼んだのか。

それはその方々に安堵を与える為です。

 

 

これが「神々様に呼ばれる」という事ではないでしょうか

神々様は神の為に呼んでいるのではなく、人に幸せを与える為に呼んでいるのです。

 

「ここにおいで、安らぎを与えてあげるから」

そんな優しさで呼んでいるのだと思います。

 

 

神々様は人々に無償の愛を与える存在。

人間は与えてもらった事に感謝する事しか神のために出来ない、ちっぽけな存在です。

ちっぽけだからこそ、人間なんだと思います。